| 神社存続についての小論 |
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今年になって目覚めた御朱印収集だが、いろんな神社仏閣を回るうちに何となく考えたことがある。 大小に関わらず何故仏閣は富み、大神社ではない小神社は衰退しやがて神職の居ない神社や祠やお堂のようになってしまうのか。 ここからが推論的なものでしか無いが、神社と仏閣を比べてみると圧倒的に仏閣のほうが集金システムが確立されているからなのではないだろうか。 まず神社の収入といえば、「お祓い」・「お賽銭」・「結婚式」の三本柱で、それ以外にも葬儀やその他諸々の少ない収入があるのみであると考えられる。 つまり、参拝者を増やす為に祭りを企画し、そこで「お祓い」をし、参拝者から「お賽銭」を戴き、そして担当地域の「地鎮祭」や「結婚式」で収入を得ていく。 これが地域で名の通った大神社であれば、文字通り参拝者数や地域人口に比例して神社経営が成り立ったり、苦しいながらも結婚式ケータリング事業(結婚式場など)に参入して生き残っていけるのだが、例えば観光地ではない山間の知る人ぞ知る神社などは、お賽銭収入は少なく、いつか神主さんの生活は成り立たなくなり他の神社と兼務となり、例祭は減っていき、区画整理で敷地は減り、社はだんだんと老朽化し、最後に神職は離職し無人社となり、下手をすれば公民館の脇に遍座した小さな祠が残って、お祭りの時期には他の地域から神主さんが来るだけになっていく。 参拝に廻っていると、「おおっ!この神社スゲェ!」と思うような感じがする場所があるけれど、そこにはうら淋しき神社・祠という名の廃屋があり、神楽殿にはお祭りで使ったであろう椅子テーブルが積み上げられ倉庫と化し、管理するのは地域の区長組長と呼ばれる町内会組織しかなかったりしている。 著者自身は無宗教だし変な団体に入ってもいないが、そんなモノを見ると悲しいのだ。 ここで仏閣はと考えてみると、収入は「賽銭」・「葬式」・「お墓」・「先祖供養」などがあり、檀家を持つお寺ならば、よほど放蕩三昧にならない限り存続できるだけの集金システムが確立されている。 そう、「葬式・お墓・先祖供養」の神社にない三本柱がお寺の駐車場にメルセデスベンツを買って置いていられる要因なのだ。 極端な話、神社には一生行かなくても生きていける。 生まれてから親の庇護によって育ち、社会に出て働き、結婚式場で神父に祝福され、生き抜いてから死んで、そして葬儀社の会堂で葬儀して焼かれて灰になれる。 しかし、お寺には誰しも何回も行かなければならない事が起こる。 日本人なら義理や用事が出来てお寺に行き、必ず何かしらの金をお寺に支払っている。一生で比較して考えるならば、100倍以上となる事も多い。 会社単位は別として、個人が神社にお金を払うのは下記のような感じになる。(人にも依るが平均的に書いてみた) 「財布の余り金でお賽銭という名の穴の開いた硬貨5円玉〜1000円札まで」・「何らかのお守り代500円」・「厄除けのお祓い1万円」・「結婚式代10万円」ぐらいしか無い。 しかし、お寺には「葬式代ン十万・塔婆料5千円・施餓鬼供養十万円・墓地永代使用料ン十万・墓石ン百万(これは石屋に払うがバックマージンがお寺に入ることがある)・盆暮れなどにお布施・墓地管理代など多岐に渡る。 そう、神社に支払われる金額とはケタ違いの、長い年月に渡って維持される太い収入源が確保されているのだ。 明治になる前までは、伊勢神宮や出雲大社などの特別な神社以外は、別当寺と言われるお寺が境内に併設され、皆も日本の歴史で習った神仏習合でお寺と神社が一体化し独立採算制になっておらず、例えばお寺に修行に来ていた小坊主さんが「和尚さん、境内の神社の祠が壊れました」と報告したら、別当寺和尚さんが宮大工を手配して代金を支払う・・・そんな世界だった。 そこで支払われるお金は、その地域の藩主さんが、お寺が書いた手紙という名のおねだりで寄進したお布施や、信仰する信者さん達のお布施で賄われていた。 ある意味、明治以前の神社は賽銭と祈祷以外の集金システムが無くても存続できる環境だった。 これが明治になり、明治政府が軍国主義を推し進める上で神社の神聖性を利用しようとしたことで神仏分離(Wiki)がなされ、その時、集金システムの美味しい所は、お賽銭と祈祷を除いて全てお寺に持って行かれてしまい、神社は独立採算性となった。 勿論、その時は国からお金が出て神社を維持できるだけのシステムがあったし、廃仏毀釈によって神社の方が美味しいシステムであったけれど、その後の太平洋戦争敗戦によってそれがガラリと変わったのは読者の皆さんの知る通りだ。 聖徳太子の時代には想像もできなかった問題が噴出することになったのである。これは明治政府の考え方の浅さが原因なのかも知れない。 今でも「〜〜神社の神主の代々のお墓は、別当寺である当寺院にあります」と見かけることがあるが、前述の神仏分離で美味しいシステムをお寺さんに取られた例として挙げられるのかも知れない。 勿論、様々な寺院仏閣の中にも檀家を持たない修行寺のように自らを高めて人を導くようなものもあるのは知っているけどね。まあ、歴史と宗教学的には、宗教の発展と運営を研究したことがある人ならば今更ここで書くまでもなくってものだろう。 ある意味、神道はこの世にあるどんな宗教団体よりも、宗教として清貧で高潔な理念に基づいて運営されているもののように思える。 他の宗教にある集金システムの合理的かつ効果的である点について誰も気が付かないはずがないのに、その部分は崇拝者の良心に任せ、ご利益という最大限のアピールポイントは本当の意味で神様に任せている。 他の宗教にあるような具体的な「脅しのシステム」、例えば「こうしないと地獄に堕ちるぞ」的な恐怖をいたずらに煽ってお金を出させるシステムはとらず、純粋に人々のココロの中にある「信仰」や「崇拝」や「良心」や「自然に対する恐れ」という、古くから日本の中で培われた美徳をその中心に置いている。 しかし、しかしなのだ。 ここで改めて思うのだが、このままでは小さな神社さんは危ない。 50年後、今のままでは殆どの小神社の神職は廃業し、古い社と鬱蒼とした森しか残らないだろう。 ここで他の宗教と比較して注目されるのが神道にある「祖霊」システム・・・所謂、お寺で言う「お墓と仏壇」である。 仏教の思想では「死者はお釈迦様の弟子になり仏となる」とされたり「輪廻転生する」となることが多く、土葬の名残でお墓という土地を用意し、そしてその場所を管理していく。年間の供養料が払われなくなり次第、墓地の無縁仏コーナーに移され、墓は整理されていく。 神道の場合、全ての魂は神様に習合され、祖霊舎に祀られる。 簡単というか乱暴にいえば、神様に取り込まれて神様の一部、つまり神様になっていくと考えられる。 ここで、もし、神道・・・つまり神社が先祖供養とお墓の分野に進出したと考えるならば、下記のようになるのかも知れない。 (1)納骨堂を備えた祖霊舎を境内に祀り、永代祭祀、骨の保管管理などの仏閣に似た集金システムを得、そして参拝者は増えていくのかも知れない。 (2)祖霊舎兼納骨堂のシステムは「先祖が神様になった」となるので、お墓がズラッと並ぶ仏閣の墓地に比べ、美観も損なうことは少なく、地元の反対が起こりにくい。 (3)山間部の神社で祀るならば反対は皆無であるのかも知れない。 (4)例えば県単位や市単位で複数の神社が利用する合同祖霊舎があってもいいのかもしれない。 (5)「死んだら神様と一緒になれる」というイメージ展開ができる。 (6)全国の家庭に「神棚&祖霊舎」を設置できる。 (7)墓地ほど土地は必要とせず、場合によっては地下納骨堂も問題ない。 また、利用者側のメリットを考えるならば下記のようになるだろう。 (1)全国の神社の祖霊舎に「墓参り」出来る。 (2)仏閣に墓を作るより利用者の支払う金額を抑えられる。 (3)神社というパワースポットを自分の墓にできる。 (4)「成仏」より昇天する感じに思える。 (5)参拝時の景観が良い。 (6)今まで墓を持っていない家にとっての選択肢となる。 ディメリットは下記のようなものかも知れない。 (1)例えばA級戦犯との合祀や犯罪者と被害者の合祀問題があった場合。 これは「合祀者リストを一部または全て秘匿」で解決するかも知れない。 しかし、上記との矛盾点として、せめて石碑に合祀者名ぐらい彫らないと何を拝んでいるのか分からず、拝み甲斐がないと感じるかも知れない。 合祀者の氏名のみで個人情報を出さなければ問題はクリアーするかも知れない。場合によっては仏教でいう戒名的なシステムを構築すればその分の玉串料も考えられる。(もともと戒名的に〜〜のミコトみたいなものがあるが) (2)骨の移動問題。 予め「骨は返還できません」としておく(省スペースな納骨堂方式)か、番号を付けて整理して納めておきリストで管理する(50年単位で土に還すなど期限付きで)か2通りのやり方がある。 (3)神社側のアフターフォロー体制 供養とも言える「祀り」を浸透させ維持するために、お寺で言う「お盆」や「回忌」のようなシステムを導入すべきかも知れない。ただし、例祭システムなどの中に組み込み、しっかり合祀者の家へ毎回案内を出せば、各神社内で出来、各家庭を回らずとも良さそう。 (4)個別墓との兼ね合い 神道信仰の方が亡くなった場合、今までも霊園などの個別墓であったものを納骨堂形式にしたらどうなるか。恐らくはそれはそれ、コレはコレ的にルールを決めておく必要がある。 (5)全国での解釈を神道内でどう統一するか 一定の基準やルールを全体会議内で決めておくか、上(伊勢方向)の解釈を聞いて流布するなどしておかなければいけないかも知れない。 結論として、明治政府に依る神仏分離という改変により神社の緩やかな衰退が始まり、そして現代の寺は1km以内に何社もあるのに、神職の居る神社は市内に片手数などという神道の衰退があるのかも知れない。 もし、今更ながら神仏を寺の中に組み込んでいく政策をとった場合、企業合併M&Aのような寺による神社の乗っ取りが起き、神職は寺の従業員になり、神道や神社はやはり衰退するだろう。 既存の神社経営システムの改革が行われない限り、小さな神社は経営難の波に押し流され、神道を維持する人々は生活苦のために減り続け、神代より続いた神道という信仰は無くなりはしないが衰退していくのではなかろうか。 多分、ここにあるものを実行したとしても、神道という信仰が金ピカの仏教や新興宗教のように金塗れにはなっていかないだろう。 恐らく実行されたとしても、他の宗教がするよりも圧倒的に安い金額設定となるからだ。 最後となるが、筆者はアンチ宗教団体主義ではあるが、神道は美しいと思う。 日本の有史以来数千年、時には自然を崇拝し、花を慈しみ、そして人として超えてはいけない力を恐れることを教え、自分たち人類が生まれ出てから受け継がれてきたものを示している。 偏狭な一神教のように他を排除せず、在るがままの全てを暖かく受け入れ、そして清廉で上品。 祭りでは神輿に神様を乗っけて練り歩き、僕らの町が発展するのを八百万の神様たちに見て貰う。 ハッキリ云えば、変な宗教のように金を巻き上げる汚物とは違うのだ。 だからこそ、せめて各神社が、僕らの願いを祝詞にして神様に伝えてくれる神職付きで、この先僕らの子孫たちの町に残っていて欲しいと願っている。 小論として、神道の何たるかを知らない素人の稚拙な部類ではありますが、筆者は、ここに数千年続いた僕らの根が細ってしまうことに危機感を持って記します。 記)楓崎想琉 (最終更新2011/06/17/Fri/16:14:50)
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| 一神教全廃論 |
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アメリカ同時多発テロの容疑者が殺害された報道がTVで流されている。 そんなTVの中で、「報復が報復を呼ぶようなテロを無くすにはどうしたらいいんでしょうか?」的な発言がなされていたが、ここでオイラが簡素にその答えをお教えしましょう。 それは、 一神教の全廃だべ。 少なくとも他者の思想や理念を認めない宗教思想や選民思想を捏造し排他的思想の根本原因となった一神教思想が存在しなくなれば、少なくとも世界の80%の争いが消える。 もし、一神教がこの世に誕生しなかったら、十字軍の遠征は起こらなかったし、魔女裁判は起こらないし、聖戦と偽っての残虐な殺戮行為もなく、島原の乱もなく、アフリカから黒人さんがアメリカに誘拐されることもなく、南米も平和のままに現代になり、今とは違った世界人口と文明進化の加速があったはずだ。 一神教の バカヤローコノヤロー もう沢山で腹いっぱいだよ バチカン市国もエルサレムも 全ての一神教の聖地と指導者なんて 東北の代わりに灰塵となれ! (最終更新2011/05/03/Tue/18:40:14)
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